認知症サポートの道

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認知症という言葉

 

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認知症という言葉は、今や私たちの身近な存在となっています。しかし、この言葉がどのように生まれ、どのように変化してきたのか、ご存知でしょうか?認知症は、歴史的にも社会的にも様々な変遷を経てきた言葉であり、その背景には、認知症を生きる人々へのまなざしや理解が反映されています。この記事では、認知症の歴史と社会的認識について、時代ごとに見ていきたいと思います。

古代から近代まで:老いと認知症の同一視

古代から近世まで、認知症は老いによる自然の摂理あるいは老耄(ろうもう)とみなされていました。老耄とは、19世紀中頃まで老耄(おいほれ)などと呼ばれ、認識や記憶能力だけでなく、他の加齢による生理的かつ否定的な身体的変化全般を表す言葉でした。フレイルの概念にも近いと言えるでしょう。老耄は老いの不可避的現象なので、逆らわずに受け入れるようにとの教訓が残されています。しかし、老耄者は精神病者として医学や警察の管理下に置かれ、家族による保護が強制され、手のつけられない状態になれば私宅監置や癲狂院への入院も視野に入れられるようになりました。当時、西洋医学のさまざまな用語が日本語に翻訳されましたが、Dementiaについては、「痴狂」「瘋癲」「痴呆」などと翻訳されていました。しかし、明治末期に呉秀三氏が「精神病ノ名義ニ就キテ」³と題する論文の中で、「癲」「狂」の文字を避ける観点から「痴呆」という用語を提唱しました。

近代から現代まで:認知症の医学化と社会化

西洋医学が始まっても、日本ではアルツハイマー病の考え方の普及は遅く、「歳のせいだ」と、病気による認知症の区別は難しかったようです⁴。世間では、徘徊する認知症を「狂癲・瘋癲人(きょうてん・ふうてん人)」と呼んでいました。フーテンの寅さんは、当時では「徘徊する寅さん」という意味になります。かの有名な夏目漱石でさえ、『吾輩は猫である』の中で瘋癲病者を「狂人」と記しています。以降、ずっと「痴呆」の用語が使われ、学会名や保険病名にも使われてきました。しかし、1960年代から1970年代にかけて、認知症の病理学的研究が進み、認知症が脳の病気であるという認識が広まり始めました。1982年の老人保健法によって、老人精神保健対策としての認知症施策がスタートし、老人保健施設や老人性痴呆疾患治療病棟などが整備されていきました。また、認知症のケアという視点も登場し、室伏君士氏が「理にかなったメンタルケア」⁵の普及に努めました。2000年に介護保険制度が導入されると、認知症の人も介護サービスの対象となり、在宅介護や施設介護が選択できるようになりました。その一方で、制度が導入されて間もなく、「痴呆に対する偏見と無理解が適切なケアを阻んでいる」といった意見が聞かれるようになりました。これを受けて、2004年に「痴呆」という呼称が「認知症」に改称され、認知症サポーター養成講座がはじまり、認知症サポート医養成研修やかかりつけ医認知症対応力向上研修が始まりました。また、2006年に地域包括支援センターや地域密着型サービス、2008年に認知症疾患医療センターが創設されました。さらに、2012年には地域包括ケアシステムの構築が目指され、2015年にはオレンジプランが策定されました。これらの施策は、認知症の人が自分らしく暮らせる社会の実現に向けて、医療や介護だけでなく、予防や支援、啓発や教育などの多面的な取り組みを推進しています。

まとめ

認知症という言葉は、時代とともに変化してきました。その背景には、認知症を生きる人々へのまなざしや理解が反映されています。認知症は、老いと同一視されてきた言葉でしたが、現在では、脳の病気であるという認識が浸透しつつあります。しかし、それだけではなく、認知症の人が自分らしく暮らせる社会の実現に向けて、医療や介護だけでなく、予防や支援、啓発や教育などの多面的な取り組みが必要です。